【音楽】こころ

written by
ハスキー(huskie)

『こころ』 – SEBASTIAN X

本稿はSEBASTIAN Xというバンドについて、彼らの発表したカバーソングという切り口でこれからすこし書く。と、いうのも彼らの選ぶ曲がいつも、周りと少し毛色の違うように思っていたからだ。

* * *

ロックバンドのライブで不意にカバーソングの披露される夜というのは、どうしたって興奮が湧き上がる。とくに、「好きなバンドが他の好きなバンドの曲を演る」なんて手放しに喜ぶべき事態が起きようものなら、なんだか夢のコラボが半ば実現したように脳内で再生されるものだ。
あの晩、おとぎ話のステージに踊ってばかりの国の下津さんがフロアからふわっと登壇して、共にThe Strokesの”Last Nite”を披露した。筆者は事あるごとに思い出す。自慢話である。

しかし「じゃあカバー曲を音源に吹込んでリリースする」となると、すこし話は変わるような気がする。わざわざそのアーティストの名義で別のアーティストの曲を発表することを、納得させる説得力があるか。・・・筆者だって常にそう堅苦しく聴いている訳では無論ない。ないけれど、本稿ではそれを気にすることを前提とする。

そもそもレコード時代のロックンロール・アルバムであれば、「鉄板」とでも言うべきスタンダード・ナンバーが、オリジナル曲と半々くらいに収録されることもザラであった。現在はすこし様子がちがって、オリジナル作品に1~2曲、或いは企画盤としてアルバム丸々に、往年のヒット曲や或いはアーティストのルーツとなるような曲が収録されることが多い。

この、現代におけるカバー曲の存在意義について考えると、やはり「カラオケの十八番なのでリリースしてみました」を超える付加価値が欲しい。たとえば大胆なアレンジを施して楽曲に新たな解釈を与えることや、まるでこのバンドの持ち曲だと錯覚できるようなドンピシャのチョイスをすること、などが付加価値と呼べるだろうと筆者は考えている。

音楽史に残るカバーソングといえば、例えばVan Halenが1978年にThe Kinksの”You Really Got Me”を再ヒットさせた。Van Halenのアレンジは強力なリフの格好良さを改めて認識させると共に、やや間の抜けたレイ・デイヴィスの歌声に替わる抜群の歌唱力が「ロックぽさ」を最大限高めている。

そのバンドがその曲を選んだことに、相補効果や相乗効果を見出せるときは、リスナーとしてとりわけ嬉しい。いわば「シチュエーション萌え」的な喜びを、カバーソングに求めているのかもしれない。

* * *

さて、SEBASTIAN Xは女性2人男性2人の4ピース・バンドであり、東京を中心に活動してきた。インディシーン全体でも一際アイコニックなボーカル・永原真夏のよく映える歌声と、ギターレスながら大胆でパワフルな演奏が魅力的だ。これまで主な全国流通盤として、ミニアルバム5枚、フルアルバム2枚をリリースしてきた。ちなみに筆者にとって数年来のフェイバリット・アーティストである。

木村和平が撮影したアーティスト写真

SEBATIAN Xがこれまで収録したカバー曲は、”春咲小紅”・”スーダラ節”・”怪獣のバラード”の3曲。それに加えて2011年のライブで披露された”カントリーロード”を、本稿では取りあげる。

“春咲小紅”は矢野顕子さんが1981年にリリース。作詞に糸井重里、演奏にYMOという情報だけでも、当時の文化のもっとも芳しいところで制作されたことが汲み取れる。カネボウのCMに起用されていることも重要だ。SEBASTIAN Xは、原曲に近いテクノポップ調のアレンジでこれをカバーしている。

〈スイスイスーダララッタ~〉というナンセンスなフレーズを誰しも1度は聞いたことのあるであろう”スーダラ節”は、伝説的コメディアン・植木等氏が1961年に大ヒットさせた。「流行歌」という表現がしっくりくるような時代の曲だ。カバーでは、無責任一代男ならぬ「平成無責任女」の看板を掲げた真夏さんが、ブラス隊を呼んだ華やかなアレンジで楽曲を蘇らせている。

このようにSEBASTIAN Xは、他のバンドの超名曲であったり、頻繁にカバーされるようなJ-POPのヒット曲であったり、雑に言うなら「ベタ」な曲には手を出さず、かといってマイナーな曲へはしることもしていない。

むしろ、CMソングや流行歌といった、ある世代以上なら誰もが耳にしてきた「超ベタ」な曲を、好んで選んでいるのではないだろうか。日本人なら『耳をすませば』が放映されるたびに”カントリーロード”を聴いていることだろう。そして”怪獣のバラード”は遂に合唱曲だ。中1の合唱コンクールで自由曲を決める時に、”怪獣のバラード”がクラス中から却下されたことを筆者はしぶとく覚えている。

そうした超ベタな曲をレパートリーに加えながら、SEBASTIAN Xは、とりわけ永原真夏さんは、普遍的な”うた”を届けようとしてきたのではないだろうか。”カントリーロード”を披露したライブで、その日はじめて披露された曲が”FORTUNE RIVER”だった。肩を取り合って歌えるようなゴスペル調のサビをもつこの曲は、明らかに”カントリーロード”の延長線上に位置づけられる「うた」である。

ハードコアパンク等に触発された出自を持ちながら、ロックバンドという括りに囚われることのない楽曲をばしばし発表してきたSEBASTIAN X。活動を通じてソフィスケートされてゆく楽曲群に、ポップスの王道を行くような芯が徐々に形成されていることは、凡庸な一リスナーからしても明らかであった。

* * *

そんな彼らだが、残念ながら2015年4月末を以ての活動休止がアナウンスされた。いちど歩みを止めるその直前に発表した彼らのオリジナルの「うた」は、”こころ”と題されている。

“こころ”とはまたまたベタな、と揶揄することを今回はできない。4人がその超ベタな普遍性を得るまでに辿ってきた活動を、筆者は知っているからだ。”こころ”は、きっと聴く人を選ばない。いつも聴いてるのがJ-POPでも、ロックでも、アイドルソングでも、”こころ”なら皆に気に入ってもらえるんじゃないかな、とそれなりの自信を持ってお薦めできる。

SEBASTIAN Xの楽曲にはどこか、「応援ソング」と受け取れるような、リスナーの背中を後押ししてくれる力がある。けど真夏さんの詞は、ただ前向きでpositiveな人の言葉ではない。むしろ諦めと悲しみの滲んだ心から発せられる、「こんなはずじゃないだろ!」という叫びのようである。

これまでも薄々と勘付かされてきたその違和感は、”こころ”をはじめて聴いた瞬間にぱっと言語化した。〈わたし愛を作りたい/こころが宿るような〉という印象的なphrase。その一節に向き合うと、「愛はひとりでに完成する都合のいいもんじゃない」と悟った彼女の眼差しと、まるで目が合うようだ。

さりとて、悟っていたって彼女はすべてを諦めた訳じゃない。なりゆきに任せても変わらないなら、作ればいい。この「うた」の主人公に、他人を応援してる余裕は、おそらく、無い。自分の愛に全力でかかりきりである。その描かれた姿に打たれたリスナーが、一人一人奮い立つのだろう。

現ディスコグラフィーの最後を飾る『こころ』は、先述の表題曲を含む6曲入りのミニアルバムである。奇妙礼太郎氏を迎えたデュエットあり、エレクトロ風あり、リミックスあり。彼らのリリースしてきた作品中でも「録音作品」という側面が強く出た仕上がりで、そういった意味では休止前の作品らしさを感じる。筆者は”こころ”と、それから”感受性に直行”の2曲がとりわけ気に入っているのだが、この2曲についてはメンバーの飯田裕氏自身のつぶやき以上に語ることなど、ないように思えた。

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